【片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)とは】
片倉小十郎景綱は幼少期より政宗と兄弟のように育ったといわれています。(姉の喜多は政宗の乳母)政宗より10歳年上なのでお兄さんのような存在だったのかもしれません。
しかし幼少期の政宗は右眼の視力を奪った疱瘡の影響で眼球が飛び出した容姿に強いコンプレックスを持ち、内向的で暗い性格になっていたそうです。それを危惧した景綱は厳罰を覚悟で政宗の右目をえぐったとされています。この行為により、政宗は元来の聡明で快活な性格に戻ったそうです。当然、両者の信頼関係がより強いものになったのは想像に難くないでしょう。
政宗が青年となり、堂々たる伊達家当主となると、景綱も「知の片倉景綱」と呼ばれるほどの軍師となり、また武芸も政宗の剣術指南を務めたと言われる程の剣術の達人だったとされる程で、まさに知勇兼備の武将となりました。政宗の文武両道も景綱の影響を強く受けたからではないでしょうか。
世の天下人の豊臣秀吉も彼の能力を非常に高く評価しており厚遇で大名として家臣に迎えようとしましたが、これを「自分は伊達家の家臣である」と断り政宗に仕え続けた義の人でもあります。
才覚や立場が天地人直江兼続に共通する点が多く、もう一人の天地人「伊達の智将」片倉小十郎とも呼べるのではないでしょうか。もしかしたら直江兼続がライバル視していたのは政宗ではなく片倉小十郎だったのかもしれないなんてことも。